義経街道 その5 番外編

 源義経は、奥州藤原家とも深いかかわりがあります。
義経は11歳のときに鞍馬寺に預けられるが、出家することを嫌い、16歳で奥州平泉へ下って藤原秀衡を頼りました。そして、頼朝が平家討伐の旗を挙げたときは、奥州から駆けつけています。そして、平家滅亡の後、義経は兄頼朝から疎まれた時、奥州の藤原秀衡が義経を匿います。
義経を奥州に案内した人物は、金売吉次(かねうりきちじ)。なんとこの人物のお墓が、栃木県壬生町にあるんです。そして、松尾芭蕉に随行した曽良の日記にも記されているとのことです。伝説なのか本物なのか・・・?
 

 
伝承だとしても、歴史って面白いですね。
 
 そういえば、義経は奥州で死なず、中国に渡ってチンギス汗(モンゴル帝国初代皇帝のチンギス汗です)になった!という伝説があるんです。
大正13年(1924年)に小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』という本に書かれていたとのこと。
最近では、東北大学名誉教授の田中英道先生が、
「やはり義経はチンギス・ハーンだった フォルモロジーからの再検証」
という著作で説明しています。
 
義経=チンギス汗 という根拠は、
 
1. モンゴル帝国の「元」は「源」と同じ音であること。
 
2.「ハーン」という称号自体が、日本語の「○○の守(かみ)」と音が似ていること。
  また、義経は、九郎判官です。
 
3. 義経が死んだとされる1189年(文治5年)以降、チンギス・ハーンが突然、歴史の舞台に躍り出ていること。
 
4.笹は、源氏の紋章です。「源氏笹(げんじざさ)」と言います。そして、チンギス汗の紋章が源氏笹に似ているとか。
不思議なのは、源氏笹はイネ科の植物で、その生息北限はおおむね北緯40度くらいまでで、寒帯に属する北方遊牧民の生活圏には生えなそうです。
7.そして、不思議なことに、チンギス汗は、中東商人の質問に答えて、出身地は「ニロンのキョト村」と答えたという記録があるそうです。
 
義経=チンギス汗は、江戸時代後期に来日したドイツ人医師シーボルトも言っていたそうです。
 
 もしかすると、フビライ汗の元寇は、じいさんの仇をとるために、鎌倉幕府を攻めたかったのかもしれませんね。
 
 なんか面白いですよね。あくまでも伝説なのでしょうけれど、このような伝説もあるということも踏まえて歴史を見るのも楽しいと思います。
 
 

  伝説は 歴史の夢を 光らせる

タクシー、観光のお問い合わせは

タクシーの御用命はこちら